
僕はこう見えても、一応、少年ジャンプ主催の「手塚賞」出身である…それが、自慢でもある。
当時、ダイナミックプロには2年間アシを勤めると「○○とダイナミックプロ」としてデビュー出来ると言う、有り難いサポート制度《その間持込厳禁、バレたら即クビ!》があったが、僕は慰安旅行にも行かず事務所で留守番しながらセッセと漫画を描いていた…何しろスクリーントーン、原稿使い放題(笑)!そして新人漫画家のメッカ・少年ジャンプに持ち込みをした…原稿を見てくれた編集のGさんは「これ、手塚賞に応募してみない…」という事になり、明日がどうなるかも知れず勢いでダイナミックを辞めた。…その応募作『エレジーママロボット』は運良く最終選考12本に残り、いち早く「荒野の少年イサム」増刊号に掲載され僕のデビュー作となったのだ。佳作でも何でもなく、穴埋め的な感じで…ちなみに、この時の受賞者は知る人ぞ知る、あの伝説の「ドリーム仮面」の中本繁だった…僕はその底辺に居た訳だな(笑)。
『プラモ狂四郎』で第7回講談社漫画賞候補、『超戦士ガンダム野郎』他で第35回小学館児童部門候補…これも、自慢である(いつも、的を射ておらんけどね…苦笑)。
これを切っ掛けに、Gさんとはカットの仕事など貰いながら細々と交流が続き、今や原作の大家となるB氏のデビュー作「…バイク少年が戦国時代にタイムスリップする」という話の漫画化を熱心に勧められるが書き直しの連続で僕が音をあげて逃げ出してしまった…(反省)。数ヵ月後、その原作は期待の大型新人としてS・Hが描き月刊少年ジャンプに掲載されていた…。
Gさんはその後、編集長として少年ジャンプの黄金時代を築き、集英社のお偉いさんになった…もし、あの時、僕が最後までGさんのアドバイスを受けて頑張っていたなら、ガンダムとも出会う事無く『プラモ狂四郎』もパーフェクトガンダムも武者ガンダムも生まれなかった…運命というものだ…。
千成大将軍へ…つづく